ハリボテ

サッカーは画面の中にはない
現代は、ハリボテが増えすぎているように感じます。
SNSという触れられない世界の中で、
上手く「見せる」人が評価され、
それを疑いもせず信じる人が増えている。
サッカーの世界も例外ではありません。
切り取られたプレー。
「映え」を意識した練習。
大言壮語な指導者。
整えられた映像は「成長」と名づけられます。
ですが、サッカーは切り抜けない競技です。
ミスも、葛藤も、ぶつかり合いも、
すべてを含めてサッカーです。
技を見せ、
真似させ、
できた気にさせる。
問いはない。
失敗は切り取られる。
それは、育成ではない。
金太郎飴の量産です。
サッカーは社会の縮図です。
子どもの環境を選ぶということは、
どんな価値観に触れさせるのかを選ぶということです。
再生数が育成の質を保証するわけではなく、
フォロワー数が指導の深さを示すわけでもありません。
「トレセンに受かる方法」
「来れば必ずうまくなります」
「超有料級」
強い言葉は、正しさに見えます。
断言は、答えに見えます。
ですが、育成はそんなに簡単に言い切れるものではありません。
時間がかかります。
遠回りもします。
報われない日もあります。
それでも向き合えるかどうか。
本気で取り組んでいる人ほど、
軽々しく言い切らないものだと思います。
看板を磨くのか。
日常を磨くのか。
違いは派手さではありません。
地味な積み重ねに表れます。
うまくいかない日も
迷う日も
自信をなくす日も
その時間から逃げずに向き合えるかどうか。
そこにしか、本物は宿らないのではないでしょうか。
見なければいけないのは
都合よく磨かれた言葉でもなく、
いいとこ取りの映像でもなく、
作られた熱狂でもありません。
ハリボテは、遠くから見ると立派に見えます。
けれど近づけば、空洞です。
本物は派手ではありません。
ですが、中身が詰まっています。
見極める目を持てるかどうか。
それは子どものためであり、
大人自身の責任でもあります。
サッカーは、触れられる場所にしかありません。
だからこそ問われます。
あなたは、何を基準にその場所を選びますか。
見栄えでしょうか。
それとも、中身でしょうか。
その選択が、子どもの未来を形づくります。
意志あるところに、道は拓く。
